藤井公元会長 インタビュー

長年にわたって会長を務めた藤井公先生にインタビューいたしました。

全てオリジナルな発想で刻んできた足跡。
そこに協会の意義があります。

藤井 公/藤井 利子近影
藤井 公/藤井 利子

約40年の歴史を持つ埼玉県舞踊協会。その発足当時の模様とその後の活動の流れを、長年にわたって会長を務めた藤井 公 先生にうかがいました。
先生のお人柄を損ねないようになるべく口語調でご紹介します。またインタビューをサポートしていただくために、ご夫人の利子先生にも同席していただきました。

※藤井公先生は2008年12月20日に永眠されました。このインタビューは2005年に行われたものです。

埼玉県舞踊協会。それは上野の汚い喫茶店から始まった。

聞き手: まずは発足の経緯について教えていただけますか。

公先生: 昭和40年ごろなんだけどね。小沢(金四郎)先生と協会をつくろうみたいな話になったのね。
上野の喫茶店で話をして。ただ当時は僕も自分の作品づくりに頭がいっぱいで、なかなか動けなかったのだけど、会うたびに小沢先生が言うものだから、重い腰をあげたんです。

聞き手: 最初は喫茶店からのスタートだったのですか。

公先生: そうそう。きったない喫茶店でね(笑)そんなところでファッションとか、バレエの協会の話をしていたんです。
でも、埼玉県の教育委員会からも「協会を作れば、個人とはちがって援助がしやすいのでぜひ作ってください」とも言われていたので、それでは作りましょうということになったんだよね。昭和42年のことだね。

聞き手: どのように進めていったのですか。

公先生: 最初は会員を募ろうと思って、公先生先生といっしょに何人かの先生に声をかけてね。
当時は今みたいにたくさんの先生がいたわけじゃないし、中には団体を作ることに興味のない先生もいた。
それでしぼんじゃいそうなこともあったんだけど、結局、間瀬(故・玉子)先生とか、公先生先生、上甲先生など7人ぐらいが集まって、発足したんです。
最初私が代表という形で始まりましたけれども、正式に会長職を間瀬先生にお願いしました。

聞き手: それが今では112人の会員がいるわけですから、大きく成長しましたね。

公先生: そうだね。ありがたいことだね。

ぎしぎし会館と呼ばれていた埼玉会館が改装し、結成公演を行った。

聞き手: それで最初はなにを?

公先生: せっかくだから、会員が作品を出し合って結成公演をすることにしたんだね。
浦和の埼玉会館を借りてね。今の方はご存知ないと思うけれど、その頃の埼玉会館はひどい板張りで、けっして踊り向きのステージじゃなかったのね。
「埼玉会館じゃなくて、ぎしぎし会館」って呼んでいたくらい。それがたまたまなんだけれども、その頃に改装して、立派になってそのこけらおとしも兼ねて公演をしたんだよね。

聞き手: 資料(さいたま舞芸)を見ると、その結成公演は昭和42年になっています。結成まもなく活動を形にされたということになりますね。

公先生: どれどれ。(懐かしそうに資料を見る) 本当だねぇ。いろいろ書いてあるね。これを作っておいてよかったなぁ。よくできてるよね。

利子先生: あっちこっちから資料を集めて、本当に苦労したのよ(笑)

「埼玉全国舞踊コンクール」はダンサーがレベルを引き上げる自己研鑽の場です。

聞き手: 翌年にはもう「埼玉全国舞踊コンクール」を開催されていますね。

公先生: そう、これは、県内のダンサーたちのレベルを引き上げたくて始めたんだよね。
でも、私が他のバレエ団の生徒さんを直接批評したりするのは避けたかったので、評論家などの先生を審査員に招いて、そこで批評してもらいたかったのね。
だから、コンクールはダンサーたちの技術的な自己研鑽の場と考えています。

利子先生: 最初が昭和43年で、この頃は県内だけから募集して、モダンとクラシック合わせてやって参加者が61名しかいませんでしたよね。それで、もっと広く全国から参加者を募るように変えていったのよね。

公先生: やっぱり、県内だけだとレベルに限りがあるからね。
当時は東京と埼玉ではレベルの違いがあったから、埼玉の生徒はなかなか上位をとれなかったのだけど、確実に全体的なレベルアップしたと思う。
ダンサーだけではなくて、振付も審査対象になるから、指導者の技術も向上したね。
今はものすごい数の参加者がいるから、これはこれで運営するのが、たいへんだけれどね。

聞き手: とてもメジャーなコンクールになりましたよね。

公先生: 人数ということもあるけど、当時は地方にコンクールなんてなくて、まったくのオリジナルで始めたというところに、埼玉のコンクールの特長があると思うし、誇りにも思っているんです。
その後、あちこちでコンクールをやりたいということで、私のところにも教えてくれーって問い合わせが来たよね。

利子先生: それをぜ~んぶ親切に教えちゃうんです。この人は。(笑い)

聞き手: それでも、公先生が始められたダンサーのレベルアップという思いが全国的に展開されて来たわけですから、すばらしいですよね。
歴代の受賞者を見ても、今もご活躍の方が多いじゃないですか。それにマスコミもついてなくて舞踊家の集団の協会が行ってるわけですから、他にはないアイデンティティですよね。

公先生: それじゃ、そうやって書いておいてくれる?(笑)

舞踊文化の普及と指導者の育成を高い芸術性を目指した「芸術祭」「フェスティバル」「ニューイヤーコンサート」

聞き手: その後も合同公演は続けられたのですか。

公先生: 名称を変えて続いています。「フェスティバル」は、指導者の作品づくりの発表の場として、「芸術祭」は会員が高い芸術制作を生み出す場として。この2つにはもうひとつ舞踊文化の普及という目的もあるのね。

利子先生: 今は「ニューイヤーコンサート」も同じような位置づけで開催していますよね。

公先生: これね、1月に開催するときはニューイヤーで、遅れると早春コンサートになるんだよね。知ってた? 知らない人もいるかもしれないから書いておいてくれるかい?

舞踊文化のグローバル化と、ダンサーの幅広い育成をめざす。

聞き手: お話をうかがうと、それぞれのイベントにしっかりとしたビジョンをお持ちなのですね。

公先生: それはそうだね。きちんと目的をもってやっていかないと。
例えば「ステージ1」は若い方が思いっきり好きなように表現できる場です。コンクールだとどうしても技術のみを考えてしまうけど、舞踊はそれだけではないからね。
もう実験的になんでもやっていい場所が欲しかったんです。
埼玉国際創作舞踊コンクールは、振付家の国際化が目的になっているのね。
世界のトップレベルの作品を日本の人に見ていただく機会にもしたかったんです。舞踊文化をさらにグローバルに膨らませるためにも必要だった。
これも埼玉だけのオリジナルのイベントで、2005年で一区切りをつけたけれども、たいへん有意義な活動だったと思います。

聞き手: 舞踊大学講座というのも開講されましたね。

公先生: これはね。アイデアを思いついた日のことも覚えている。
自転車で路を走っていたら、看板に「老人大学」って書いてあったんだよ。
講習会なんていうのより、なんかよさそうに見えるじゃない。だから、そうか、それじゃあ「舞踊大学」というのを開いてやれっていうんで思いついたのね。

聞き手: どのような内容だったのですか。

公先生: ダンサーは踊りのことだけとか、テクニックだけ知ってるというのじゃダメなのね。
もっと幅広い知識があった方が作品も演出もよくなるでしょう。だから、照明の先生や美術の先生、作曲の先生などを招いて講義をしてもらったのね。
とても好評でしたよ。しかも、1年間にわたって講義を行うのだから、立派に大学的な形だったの。

舞踊家に求められるものとは。

聞き手: なるほど、本当に着実にさまざまな事業を行ってきたのですね。

公先生: 昔、もうなくなられた批評家の早川先生が、私のことをほめてくださったことがあって、
「舞踊家に求められるものは3つある。1つ目は舞踊を事業として成立させること、2つ目は後進の育成に力を注ぐこと。そして3つ目はアートを高めた公演活動を怠らずに続けていくこと。藤井先生はその3つともできている」
と、これはちょっと誉めすぎなんだけど、その考え方には私も同感なのね。
だから、埼玉県舞踊協会の活動はそのいずれかを目的として発展し、催されてきたわけです。

聞き手: 最後にこれまでの活動を振り返って、どのような感想をお持ちか教えてください。

公先生: 悔いはないね。何度も言うけれども、全部オリジナルで作りあげてきたというところに、特に満足を感じるね。
それに協会員の皆さんが本当に協力してくれたからできたのです。クラシックとモダンが仲良くやってこられたということは、その証しなんだよね。
これからも、もっとすばらしい協会になって欲しいと思います。舞踊にはそれだけの魅力があると思っています。

------------ありがとうございました。--------------